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伊達政宗は世渡り上手だった

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伊達政宗が豊臣秀吉に送った手紙

栃木県立博物館が戦国時代の手紙を入手し、調査の結果、伊達政宗が豊臣秀吉に送った直筆の手紙だったことが明らかになりました。
そこには、伊達政宗が天下統一を目前に控えた豊臣秀吉の元に「遅れる理由」などが書かれていました。
その手紙から、強い武将として知られる伊達政宗の意外な素顔が明らかになったのです。

伊達政宗というと「強い」というイメージがありますが、大きな戦で勝利したのは1回だけです。
小さな戦いでは結構勝っているのですが、大きな戦いは会津を奪い合いした「摺上原(すりあげはら)の戦い」で1度勝っただけでした。

1589年 摺上原(すりあげはら)の戦い

伊達政宗と、会津の蘆名義広(あしな よしひろ)との戦いで、政宗はこの戦いに勝利し、東北最強の名を手にしました。
政宗が東北地方を統一したのは、この戦いによってでした。

しかし、全国的にはあまり、大きな功績を残してはいませんでした。
なのになぜ政宗は、現代にまで語り継がれる名武将になったのでしょうか?
その理由は、2015年に発見された手紙から読み解くことができるといいます。

全国的な功績のない政宗が、名将と語り継がれる理由
それは「戦国一の世渡り上手」だったからです

政宗は、権力者の懐に入るのが上手でした。
豊臣秀吉、徳川家康、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光にまでわたり、気に入られたのです。
特に3代将軍・家光には「仙台の爺」と呼ばれ、とても気に入られていました。

2015年に発見されたのは、秀吉に呼び出された政宗が遅刻したので、急いで「ごめんなさい!」と書いて渡した手紙です。
この頃の豊臣秀吉は専制君主で、遅刻などしようものなら「打ち首獄門」、そうでなくても「お家取り潰し」はありました。

では、政宗が秀吉に許してもらうための手紙の内容は、どんなものだったのでしょうか?

政宗が秀吉に宛てた手紙
いま、秀吉様の元へ、昼夜問わず徹夜で向かっています。
でも、人も馬も疲れ切ってて、大変で……
どうしても間に合わないんです!
秀吉様がすでに、昨日(宇都宮に)到着したことは、本日部下から聞いたばかりで……
私も急いで向かっています!
明日の10時頃には、到着できるかと思います!
詳しくは、面会したときに話します!

政宗は、この手紙を書いて秀吉に許してもらいました。
秀吉は、政宗を可愛がっていました。
本郷先生曰く「政宗が、ここまで人に謝っている文献は珍しい」と。

実は、政宗が遅刻したのはこの時だけではなかったのです

遅刻の常習犯だった政宗には、もっと大変な時がありました。
豊臣秀吉が北条氏に勝利して天下統一を決めた戦いだった【小田原攻め(1590年)】という大事な時にも、政宗は大変な遅刻をしていました。

それは、秀吉の呼び出しから約半年も経つ遅刻でした。
秀吉はもうカンカンだったのですが、その中で政宗は「あること」をして、秀吉の許しをもらうばかりか、そのことによって、全国の武将に一目置かれる存在になりました。

政宗は秀吉に、「首をはねてくれ」と、白装束を着て謝りました

このとき政宗は、秀吉の気持ちがわかっていました。
秀吉にしてみれば、当時の東北は田舎なので、伊達政宗のような力を認めた奴を殺してしまうと、東北地方が荒れて乱れてしまいます。

それよりも、「政宗を生かしておいて、東北地方を治めさせたほうが良い」、その気持ちを政宗はわかっていたのです。

(了)

[出典:2017年1月24日放送の「林修の今でしょ講座」]

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Tasuke

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